

1995年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された出水麓は、江戸時代初期に約30年の歳月をかけてつくられた鹿児島県最大の武家屋敷群です。街並みが歴史と文化を伝える野外博物館のようなこの地区では、古文書を解読して明らかにした先祖の足跡を地区のアイデンティティの土台とし、独自の街づくりを進めてきました。
鹿児島県を中世から江戸時代まで治めた薩摩藩は、江戸時代に独自の「外城(とじょう)」制度を設けました。外城とは領内における各地の支配拠点のことで、主には山城のあった近くが選ばれたのです。この外城に「麓(ふもと)」と呼ばれる武士たちを住まわせる集落を形成しました。江戸時代末期には領内に約113か所も麓があったといわれます。数ある麓の中で、初期につくられ規模も最大級だったのが、熊本県との県境に位置する出水市に築かれた出水麓です。防衛上の最前線となった出水麓には、武家屋敷群が形成されます。同時に屈強な武士が配置され、近くの関所では厳しい検問が行われました。

250年以上も続いた江戸時代を通じて、出水麓は武士を中心としたコミュニティの中で独自の歴史と文化を築き上げました。しかし、明治時代になると武士への俸禄撤廃で生活が困窮。平均500坪だった屋敷の土地の一部を売り、生活費に充てる武士が多く現れました。次の転機は太平洋戦争後の農地解放です。出水麓に住んでいた武士の多くは半農半士であり、明治以降も多くの家が農地を持っていました。しかし、田畑の多くを手放さなければならず、屋敷を売り土地を離れる事例が増加。売られた土地には移住者らが新たな家などを建てました。

1970年代頃になると、このままでは「街のアイデンティティが消えてしまう」という危機感が高まりました。行政の後押しもあり1976年に武家屋敷を有する100軒近い家が参加する「武家屋敷保存会」が発足します。保存会は鹿児島大学の建築科の教授2名に屋敷の調査を依頼。すべての武家屋敷を対象に、建物を解析して図面化しました。また、各家が所有する古文書の解読も進め、家ごとに家柄や先祖の経歴などを明らかにしていきます。情報をまとめた冊子を編纂して地区の住民に配布。これを見て初めて先祖の活躍を知った住民も多かったといいます。知ることで自分達の歴史を大切に思う感情が強まり、保存会の活動にも積極的に参加する人が増えたそうです。これらの動きが評価され、1995年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。それを契機に、武家屋敷を有する100軒近い家々だけではなく、対象地区の「住民みんなで保存しなければいけない」という動きが生まれます。1998年には350軒以上の地区住民が参加する「出水麓街なみ保存会」が発足しました。


現在、出水麓があった出水市麓町の小学校では、江戸時代後期にまとめられた「出水兵児修養掟(いずみへこしゅうようおきて)」の素読を行う時間が設けられています。小学生はほとんどの児童が原文を暗唱できるようです。兵児(へご)とは青少年のことを指し、薩摩藩では年長者が後輩に学問や剣術、躾などの教育を行っていました。その際に教えられた武士の心構えが、この掟になります。

人は正しいことをしないといけない。正しいこととは、うそを言わないこと、自分よがりの考えを持たないこと、素直で礼儀正しく、目上の人にぺこぺこしたり目下の人を馬鹿にしたりしないこと、困っている人は助け、約束は必ず守り、何事にも 一生懸命やること、人を困らせるような話や悪口などを言ってはいけないし、自分が悪ければ首がはねられるようなことがあっても弁解したりおそれたりしてはいけない、そのような強い心を持つことと、小さなことでこせこせしない広い心で、相手の心の痛みが わかるやさしい心を持っているのが、立派な人と言えるのです。

「出水兵児修養掟」は地区独自の道徳教育として受け継がれています。確かに今の人が見ればきついと感じる表現もあるでしょう。しかし、子供たちだけではなく、社会で活躍する人々にも知ってもらいたい、今でも立派に通用する教えです。出水麓街なみ保存会は、古文書の解読で明らかにした地区の歴史を基に活動をしてきました。実はまだ解読されていない、出水市や当保存会、個人が所有する古文書はたくさんあります。個人所有の古文書は完璧な保存が難しく、虫食いなどによる欠損の心配があるので、早く解読していきたいんですよ。しかし、解読料金が安すぎてやる人が少なくてなかなか進まないというのが実情です。価値ある労働に対してきちんと評価する社会であってほしいですね。そうなるためには、一人ひとりの意識が最も大切だと思います。