関西国際空港を有する関西の玄関口・泉佐野市。市の全域は約800年前に京都の上級貴族の荘園「日根荘」として成立し、開発が進められました。現代的な都市開発や道路整備と共存する、中世から受け継がれた寺社や水利施設、段丘面に広がる田園が、市民の暮らしを支えています。
大阪湾に浮かぶ関西国際空港と本州を結ぶ道路や鉄道が海上をはしる泉佐野市。埋め立て地のりんくうタウンを含む北部の沿岸部は近代的な街並みが目立ちますが、中南部エリアは古い遺構や昔ながらの町屋や景観が現存します。元々、泉佐野市を開発したのは、貴族の中の貴族である五摂家の一つ九条家です。1234年(鎌倉時代初期)に市全域で広大な荘園を成立させたと記録されています。これにより同市の中南部の荒野は開墾と人々の定住が進み、自治的な組織「惣村」として村がまとまっていったと考えられています。泉佐野市に築かれた荘園は、16世紀に豊臣秀吉による「太閤検地」で荘園制度が終焉するまで九条家がほぼ支配。江戸時代以降も建造物・構造物や文化風習が受け継がれ、現在まで続くものがいくつも存在します。
九条家が泉佐野市域を荘園化するのは簡単ではありませんでした。その証拠に1234年以前、「高野山が同市の中部・日根野エリアに広がる荒れ地の開墾を試みるも失敗」という記録が、複数の年に記録されています。最大の課題は水の確保でした。大きな川のない当地では、ため池や用水路の整備が必要だったのです。現在も当地を潤す井川(ゆかわ:水路)は、幾多の試行錯誤の末に順次築かれたと予想されます。井川の全長は約2.75kmで、取水口と最終口の高低差はわずか約5mで流れるように造られました。1309年(鎌倉時代終盤)に九条家が土地を調査してまとめた絵図を見ると、水路やため池、寺社の場所が現存するものと驚くほど一致しています。
鎌倉時代の絵図には「大井関大明神(おおいぜきだいみょうじん)」と記されており、地域の水利を守る神として信仰を集めていたことがうかがえます。7月中旬の「ゆ祭り」では井川を祀る儀式が執り行われます。また、5月には春の祭礼として五穀豊穣、子孫繁栄、安眠を願い飾り枕を奉納する奇祭「まくらまつり」が開催されます。
現在でも日根野エリアの主要な水路として機能しています。
今も昔も広範囲に水田を灌漑する日根野エリアの主要なため池。
中世の日根荘の様子を知る資料が、「政基公旅引付(まさもとこうたびひきつけ)」(九条家文書)です。これは1501年(室町時代後期)に当時の荘園領主であった九条政基が、京都から日根荘に赴き、約4年間滞在した際に荘園の様子を克明に書き記したものです。ここでも水にまつわる出来事が書かれています。干ばつに悩まされた荘園の村人が、七宝瀧寺の僧を滝宮(火走神社)に呼んで雨乞いの儀式を行いました。そのお礼に村人たちが奉納した能を見た政基は「都に恥じないものだ」と称賛。今も神社では収穫感謝の神事がホタキ神事(おひたき)として行われています。他にも、大井関大明神(日根神社)で行われた祭礼における村人の演舞の素晴らしさを、「都の役者と比べても優劣をつけがたい」と政基は褒め讃えています。
「滝宮」や「滝大明神」と呼ばれ、水と結びつきの強い神社ですが、火の神様(かぐつちのかみ)を祀っています。推古天皇の時代(飛鳥時代)に祭礼を行ったとされる古社で、干ばつの際には雨乞いの儀式が行われたほか、夏・秋の祭礼の時に風流念仏や猿楽、田楽など、さまざまな芸能が行われました。また、泉南地域で唯一となるだんじりを担いで運ぶ「担いだんじり」が現在も続けられています。
「政基公旅引付」には近隣の武士が荘園に攻めてきた時、円満寺の早鐘で危機を知らせて村人を招集したと記載されています。現在は地域の人々の集会施設として利用されています。
九条家の荘園として泉州の中でも独自の歩みを刻んだ泉佐野市。現在、豊かな自然と中世の荘園に由来する土地利用の在り方や、当時の世界を体験できる貴重な場所として、市内の日根荘を構成する歴史的な価値のある寺社や水路、ため池、跡地など全16か所が国史跡・日根荘遺跡に指定されています。また、2019(令和元年)年には日本遺産の地域型ストーリー「旅引付と二枚の絵図が伝えるまち-中世日根荘の風景-」として認定。さらに、市内の大木地区は大阪府唯一の重要文化的景観「日根荘大木の農村景観」に選定されています。泉佐野市は中世から受け継ぐ景観や遺構、文化を大切にしながら価値を高め、現代の生活に組み入れて地域の未来を築いています。