宇治茶
今以上のモノをつくりたい
その思いの継承が
宇治茶ブランドの源泉です
「栂尾かそれ以外か」からの脱却 宇治は古くからの茶産地です。鎌倉時代に京都の栂尾町(とがのおちょう)にある高山寺の明恵上人(みょうえしょうにん)が、お茶栽培を普及させるため宇治や伊勢、静岡県の清水など、各地に茶種を伝えたといわれます。室町時代頃には宇治は茶産地の一つに名前が挙げられています。しかし、当時は栂尾町のお茶だけが「本茶」と呼ばれ、他産地のお茶は「非茶」と言われるほど品質が違ったようです。宇治の生産者らは栂尾町のようなお茶をつくりたいと考え、研究を重ねて一つの結論に至ります。栂尾町の茶畑は日陰になる場所につくられており、日陰になる時間が長いほどうま味が残ると考えました。茶葉は確かに光が当たるほどうま味が渋みに変わるんですよ。それで宇治の生産者らは、人工的に日陰をつくる方法を考案しました。
宇治が編み出した覆い下栽培 琵琶湖に自生する葦を用いて葦簀(よしず※)をつくり、茶畑に丸太や竹でやぐらを組んで、茶畑全体を葦簀で覆います。さらに葦簀の上に稲わらを敷き詰め日光を遮断しました。この栽培法により宇治茶の品質と評判が一気に上がったんです。幕府や朝廷からは「この覆い栽培は宇治でしか認めない」と保護をされるようになり、栂尾町のお茶より有名になっていきました。これを本簾覆下(ほんずおおいした)栽培と呼びます。葦簀だけで約70%、稲わらを敷いて90%以上の光を遮るこの栽培方法を、宇治では代々受け継いでいました。
※すだれのこと
三位一体でブランドを守る
しかし、昭和時代の中期になると労働不足や資材不足で、伝統的な栽培方法を継続するのが難しくなったんです。それで私の父親が京都府の茶業研究所と一緒に、自宅の茶畑で検証を行いながら、新しい方法を編み出しました。それが葦簀の代わりに黒い幕を二重に貼る現在の方法です。さまざまな検証を重ねた結果、従来の栽培方法とそれほど品質が変わらない結果を得たことから、宇治では一気に広がりました。「宇治茶」というブランドは、当たり前に存在しているわけではありません。今以上に良いお茶をつくりたいという生産者の努力、そのお茶を全国に販売する茶業者、そして行政の理解と支援、そのような三位一体が宇治茶をつくり上げているんです。
お茶は元々は薬として伝来しました。時代が下(くだ)るにつれて庶民の飲み物になり、今ではスイーツに入れて食べる方法も生まれています。時代に合わせて変化してきたお茶が、次の時代にどのように愛用されるのか、一人のお茶生産者として興味がありますね。
宇治茶
宇治茶栽培の始まりは13世紀初めの鎌倉時代といわれています。令和元年の大嘗祭に手もみ玉露を献上した生産者の吉田さんは、全国茶生産団体連合会・会長をはじめ、さまざまな関連団体の重役を務めています。「喉を潤すペットボトル、心を潤すのが急須のお茶」と色々な場所でPRしていると笑う吉田さん。「100gで3,000円の茶葉でも、一回に急須に入れる量は10g以下です。300円以下で美味しいお茶が何杯も飲めると考えれば、お茶は安いものなんですよ」と語ります。
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