長崎県の西彼半島南西部にある長崎市西出津町。その山間の一角には、段々畑と石積みの建物跡が存在します。この農業施設跡は明治時代に一人の神父が音頭を取り、地元の住民と一緒に17年かけてつくりました。大平作業場跡と名付けられていますが、地元の人々は神父に感謝の気持ちを込めて、「ド・ロさま畑」と今も呼んでいます。
明治時代の初期、この辺りは「陸の孤島」で田畑は少なく、あまり恵まれた土地ではありませんでした。長崎市内で布教活動を始めたパリ外国宣教会は「そんな場所だからこそ、隠れキリシタンが江戸時代に多く移り住んでいるはず」と推察。信仰を広める目的でマルク・マリー・ド・ロ神父が、1878(明治11)年に当地に赴任しました。
地域を観察したド・ロ神父は、半農半漁で貧しい生活を送る人々の暮らしに驚きます。特に、海難事故で働き手の夫や息子を失った婦人の悲惨な生活に心を痛めました。そこで孤児院と、女性が働ける救助院の建設を考えます。この建設作業にはキリスト教を信仰するしないに関わらず、多くの地元の住民が技術や資材を持ち寄り協力しました。完成した救助院では織布、編物、素麺、マカロニ、パン、醤油などを製造。外国人居留地や内地への販売で利益を得ました。救助院が軌道に乗ると、原料を栽培する農地「ド・ロさま畑」の開墾を開始します。他にも、道路や湾岸の整備なども行い地域の生活を豊かにしていきました。
ド・ロ神父と地元の人々がつくった施設群の多くは、「外海の出津集落」として世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産となっています。「ド・ロさま畑」は現在でも地元有志により守られており、収穫体験などのイベントも行われています。