天草諸島の下島の北に、面積0.60km²、海岸線長3.9kmの小さな島があります。貿易港として栄えた長崎からほど近い南東に位置するこの小島には、その昔、外国人が行き来していたと考えられており、「通訳する人が住む島」ということから通詞島と名付けられたという説が伝わります。
島の沖合には約200頭の野生のイルカが生息しており、イルカウォッチングをはじめ、豊かな自然や島の高台から見える風光明媚な海の景色を目当てにした観光客が、島にかかる唯一の橋である通詞大橋を渡ります。1975(昭和50)年にこの橋が開通した際は、島民一体となって開通を喜び、島の広場で各組別に催し物を披露して祝ったと島の古老は語ります。
それ以前は、島への往来手段は手漕ぎの渡し舟であり、島民は幼い頃から櫓の漕ぎ方や進行方向を決める竿の扱い方を学んだそうです。島には2年生まで通える小学校の分校があり、3年生からは下島にある本校に渡し舟を利用して通いました。また、島に水道が通ったのは1959(昭和34)年のことで、それまでは島の2カ所にある井戸が生活用水の要であり、雨不足の時には水が家ごとの配給制になったといいます。水道が通る頃までは各家庭に風呂がなく、毎週土曜日に学校から帰る子供達を待って、母親が渡し舟で下島の銭湯に連れて行ってくれたそうです。水の不自由さとありがたさを知っているだけに、家に風呂ができた時の嬉しさは今でも忘れないと島の古老は言います。
通詞大橋が開通するまでは、島民の大半が漁業に従事しており、貧しいながらも団結や絆が強かったと当時を知る島民は振り返ります。また、漁業に関しては「イルカと一緒に漁をしていた」と語り、当時のじい様ばあ様は「神様に挨拶に回るぞ」と言ってイルカが魚を群れで囲んで食べている場所に舟を回したそうです。「自然の恵みと一緒に暮らす」というのが島の当たり前の姿だったと教えてくれました。