関ケ原の合戦で徳川家康が勝利すると、天草地方は戦功を挙げた唐津藩(佐賀県唐津市)の寺沢広高に恩賞として与えられます。そもそも天草地方は土着の豪族らの力が強い場所で、当時信仰を禁止されたキリシタンも多く、治めるのが難しい場所と考えられていました。そこで寺沢広高は厳しい姿勢で天草地方の統治に挑みます。特に年貢に対しては近隣の藩主が「取りすぎ」と表現するほど過酷な取り立てを行いました。このような圧政が、後に起こる日本史上最大級の民衆の武力蜂起、島原・天草一揆の大きな要因となるのです。
天草四郎時貞を旗頭にした天草や島原の元武士や浪人らは民衆を率いて、徳川幕府の軍勢と激しい戦いを繰り広げます。天草の民衆の中には幕府方に加わる者もおり、約4か月にわたる戦いで、天草地方はひどく荒廃したと伝わります。一揆が沈静化した後に天草地方の再生を任されたのは、近畿地方で代官として手腕を発揮していた幕臣の鈴木重成でした。
鈴木重成は天草地方の人々の心と生活の安定を第一に考えた政策を実行していきます。中でも特筆すべきは年貢(税金)の大幅な削減です。石高(米の予定生産量)に対して40~60%を年貢として治めるのが一般的だった時代に、20%程度しか徴収しませんでした。この数字には理由があります。4万2千石と定められた寺沢時代の石高に対し、天草を検分した重成は「実際はその半分くらいだ」と試算し、適正な数値に落としたのです。他には、一揆の騒乱で耕作者が2~3割も減った天草の労働力を補い、再生計画の新たな力となる移住者を呼び込みます。さらには、人々の心のより所となる社寺を20以上も再興。一揆による戦没者を供養する際には、仏教・キリスト教の信仰の違いで分け隔てることなく等しく慰霊を行いました。
鈴木重成は幕府に対して、天草地方の石高を4万2千石から半減しなければ人々の生活は成り立たないと再三にわたり訴えかけます。しかし一度決めた石高を下げるなど、幕府とっては威信にかかわる一大事であり中々容認されませんでした。代官として天草に着任してから12年後、重成は江戸にある自邸で亡くなります。その死は天草にも直ぐに伝えられ、3か月後には天草に重成の供養碑が建てられました。天草の人々は、地域の再生に尽くしてくれた重成を偲び、供養碑の前で感謝を述べたことでしょう。そんな供養碑参りが100年ほど続いた頃、重成は神として祀られるようになり、鈴木神社が天草地方の各地に建立されました。
幕府は天草代官の後任を重成の甥で養子の鈴木重辰に命じます。重辰も慈愛と信頼による施政を行いました。そして6年後、ついに幕府は天草地方の石高を見直す再検地を行い、その結果、重成が訴えた通り2万1千石に定め直したのです。鈴木重成と養子の鈴木重辰に加えて、重成の思想に大きな影響を与え、天草再生にも汗を流した、兄であり重辰の実父である鈴木正三の三者を鈴木三公と呼び、天草の恩人として讃えています。
鈴木重成が始めた取り組みの一つに、本渡諏訪神社の例大祭の期間に開催した「農具市」があります。島の農耕を盛んにする目的で開かれ、やがて農具以外も扱う雑貨市へと発展。「本渡の市」と呼ばれ幕末の頃には九州三大市の一つに数えられるほど大きくなりました。現在は形を変えて、全天草の各種スポーツ大会や文化行事が行われるなど、島民の心身研鑽の機会として継承されています。
鈴木重成公は現在の愛知県豊田市で生まれた三河武士です。徳川家の家臣として数々の戦で功を挙げ、泰平の世になってからは優れた文官として実績を重ねました。私は鈴木重成公の「困難に立ち向かう姿」に心を動かされます。天草と同時に島原の復興にも代官として尽力しておられ、とにかく真面目で一所懸命なんですよ。剛毅で朴訥な三河武士を体現する人ではなかったでしょうか。また、重成公に数々の助言を行い天草復興を手伝った兄で仏教思想家の鈴木正三和尚も魅力的な人物です。「それぞれの職(身分)には役目がある。武士なくして世は治まらず、職人なくしては世界の便利が進まず、農人なくして世界の食は成り立たず、商人なくして世界の自由(流通)は成り立たない」という「万民徳用」という仏教書を著し人々に説きました。それぞれに役割があり、各々が世のため人のために念を込めて一心に打ち込むことが、己を活かす道であり世の中に役立つ行動であるという考え方は、現代社会にも通じる大切な教えだと思います。