江戸時代初期の名将・藤堂高虎は、自身が治める伊賀地方を「秘蔵の国」と評しました。
京都や奈良にほど近く、近江や伊勢に街道が走る交通の要所であると同時に、四方を山に閉ざされた当地は、小さな伊賀盆地を中心に、独自の風土と文化を成熟させていきました。
先人たちの知恵と技の結晶は、現在の暮らしの中に、伊賀の財産として息づいています。
優れた身体能力を生かし奇想天外な忍術を使う「忍者」のイメージは、主に昭和初期~中期の小説などで形づくられたといわれます。伊賀国は戦国時代の頃まで、小さな盆地の中でいくつもの小領主が割拠して競い合っていたため、少数精鋭のゲリラ戦の技術が磨かれました。伊賀盆地の多くの土壌は粘土質で当時は稲作に適さず、傭兵業に従事する者達が出現。「伊賀衆」などと呼ばれ、攪乱作戦や敵陣に忍び込む夜襲などで武功を挙げました。2017年に伊賀市は忍者市宣言を行い、地域おこしや観光誘致に忍者を活かしています。
日本の国内牛について調べた鎌倉時代の書物に、伊賀牛に関する記載があります。役牛として農作業や運送業で利用される一方、干し肉は古くから保存食として活用されていたそうです。明治時代には金谷清三郎が伊賀から東京へ伊賀牛を出荷し広く知られるようになりました。肥育農家から精肉店が直接、一頭丸ごと買い付けるという取引形態が一般的なため、地域内での流通と消費がほとんどを占めます。他所への流通量が希少なことから「幻の牛肉」とも称されます。
肉を食べる習慣が一般的ではなく、海から離れ魚も十分に手に入らなかった江戸時代後期から明治初期に、地域で豊富に採れる大豆からたんぱく源を補うため、豆腐や味噌を使った料理の一つとして工夫されたのが始まりと伝わります。使用するのは伊賀で作られた木綿豆腐。縦長に切った豆腐を竹串に刺して両面を素焼きにした後に、自家製の味噌を玉のように丸めてつるして熟成させた伊賀独自の玉味噌と、木の芽を合わせた味噌を塗って焼きます。今でも晴れの日のおもてなしの料理として親しまれています。
伊賀忍者の携帯食だったと言われ「武器としても使われた」と伝わるほど非常に硬いお菓子です。小麦粉、砂糖、胡麻などを原料とし栄養価が高く、日持ちがするので合戦地や旅先では優秀な保存食として重宝されました。
伊賀盆地の特産品の一つである白瓜の芯を抜き、細かく刻んだ大根や生姜、きゅうり、しそなどを詰めて、たまり醤油で1~2年間、自然熟成した漬物です。養肝漬(ようかんづけ)という名前は、武士や忍者が陣中に常備し、肝っ玉を養う漬物ということから名付けられたそうです。
関西でよく知られる丁稚ようかんは、一般的な水羊羹よりも甘さが控えめであっさりとした味わいです。盆地特有の底冷えと乾燥しやすい冬に喉を潤す菓子として伊賀地方でも根付きました。江戸時代後期に丁稚(幼い奉公人)が練り羊羹をつくった後、鍋に残った羊羹に水を混ぜて固めたものをおやつとして食べていたことから、丁稚ようかんと呼ばれるようになったとも言われます。
伊賀市上野東町に鎮座する上野天神宮は、菅原道真を祀ることから菅原神社と呼ばれます。上野天神宮の秋祭りである上野天神祭は、江戸時代前期に再興された祭礼です。2002年に国重要無形民俗文化財に指定され、2016年にはユネスコ無形文化遺産に「山・鉾・屋台行事」33件の一つとして登録されました。上野天神祭では神輿の後に続く鬼行列が特に目を引きます。これは役行者の大峰山への峰入りの様子を模したもので、大御幣(おおごへい)を先頭に、悪鬼や役行、ひょろつき鬼などが続きます。
豊富な木材と良質な陶土が取れる伊賀では中世から焼き物が行われていました。茶の湯が盛んになった戦国時代後期には、武将茶人として名を馳せた古田織部などの指導で、先進的な美意識を取り入れた多彩なデザインの焼き物がつくられるようになります。江戸時代に入ると一時、伊賀焼は途絶えますが、当地を治めた藤堂藩の支援もあり日常雑器を中心に復活します。現在は料理を引き立てる土鍋や食器などを中心とした作陶が行われています。