豊かな森林資源を持つ山都町は水に恵まれ、いくつもの河川が流れます。しかし、通潤橋の南に広がる白糸台地はそれらの川が削り取った深い谷に囲まれており、台地の上には水源がありませんでした。水を溜めにくい阿蘇山系の大噴火がもたらした溶岩台地でため池も効果はほとんどありません。そのため、この地の農民は少量の水でも栽培できる作物に限定した農業を営んでいました。「台地の下には水があるのに...」という農民らの切実な思いを受けて、当地の惣庄屋が立ち上がります。
その惣庄屋の名は布田保之助(ふた やすのすけ)。大小合わせて216もの村が集まる熊本県内で最も広い矢部郷の16代目の惣庄屋です。布田家は祖父の代から矢部郷の惣庄屋を務めており、保之助の父は当地の発展計画を周囲に認めさせる引き換えに、36歳の若さで自害しています。10歳で父の覚悟の死を目の当たりにした保之助は、青年期から地域の役職を歴任し、34歳で矢部郷の惣庄屋に就任。父が果たせなかった事業計画を引き継ぎ、道路や橋、水道、ため池の建設など地域の農業基盤の強化に努めました。そんな保之助は、白糸台地の窮状を解決しようと動きます。
保之助は白糸台地の高いエリアで対岸との距離が短い場所に、水路を渡せないかと考えます。目を付けたのは現在の通潤橋の場所です。下を流れる川から白糸台地までの高さが約30m、対岸の距離は100m。江戸時代末期の建設技術では、高さ10mほどの橋がやっと。保之助は高い橋を求めてあちこちに足を運びました。そんな日々が続いたある日、現在の熊本県下益城郡に霊台橋という大きな橋ができたという情報が入ります。高さ16m、長さ90m、幅5.5mのアーチ式の石橋を見た保之助は、「これだ!」と橋をつくった石工を探しました。
霊台橋をつくったのは現在の熊本県八代市にあった種山村の石工集団です。この集団の祖は元長崎奉行所の下級役人・藤原七林。オランダ人から石橋の技術を学ぶのですが、その行動は鎖国中の幕府の禁令に触れるものでした。長崎から逃げて八代市に住み着き、この地の石工や自身の息子らにアーチ式石橋技術を伝授したのです。保之助が見た霊台橋は藤原七林の孫の3兄弟が手掛けたものでした。現在、九州には全国の9割以上の眼鏡橋が残ります。ヨーロッパ系や中国大陸系の技術が入りやすく、阿蘇山系の大噴火でできた加工しやすい溶結凝灰岩が九州一円に大量に分布している点などが数多くつくられた要因ではないかと考えられています。
種山石工と話を付けた保之助は、さっそく自ら束ねる領内で貯蓄を始めます。結果的に、高さ20.2m、長さ76mの通潤橋と、約6km先の笹原川の取水口から1000分の1という緩い勾配で通潤橋まで水を引く幹線水路など、全42kmの水路に要した建設費用は、現在の貨幣価値で約38億円。保之助は7年間で半分以上の資金を集め、残り半分は熊本藩から借り入れて工事を進めました。1年8カ月を要し、延べ人数で8~9万人が土木工事に汗を流したと推測されています。
通潤橋には3本の通水管が埋設されています。水の取入口は通潤橋より約7.6m高い位置にあり、水は橋に向けて落ちて勢いをつけ、白糸台地側で約6.5mの高さに吹き上がります。逆サイフォンの原理が用いられており、通水管には非常に高い水圧がかかります。保之助らは水漏れを起こさない強固な通水管をつくるため何度も試作しては失敗を重ねたそうです。
多くの人々の力を借りて完成した通潤橋が通水したのは1854年7月29日。その日、保之助は白装束を身にまとい短刀を懐に忍ばせて通潤橋の真ん中に静かに座ったと伝わります。通水が失敗に終われば、責任を取って切腹するつもりだったのでしょう。通潤橋により約200家族、800名が暮らす白糸台地に安定した水源が確保され、100ヘクタール以上の田んぼが拓かれました。通水から約170年間、通潤橋は現在も白糸台地の農業を支えています。
現在、観光の目玉となる通潤橋の放水は、そもそもは橋の通水管に堆積する砂や小石を吐き出す掃除作業として昔は年に1度だけ行われていました。放水の日に選ばれたのは通潤橋が完成する以前から続く八朔祭りが開かれる旧暦8月1日。祭りに来た人はまず通潤橋の放水を見てから祭りに繰り出したそうです。八朔祭りは現在まで約260年も続き近年の開催は毎年9月。祭りの目玉である「大造り物」は、住民が野山で集めた竹や松の皮など自然物を用いて、町内の各組が創意工夫を重ねて出来栄えを競い合い、共に地域の繁栄を祈ります。