AGRIFUTURE Vol.59
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大正・昭和初期の粋が詰まった旧岩﨑家末廣別邸旧岩﨑家末廣別邸:千葉県富里市七栄650--25 取材協力:富里市教育委員会 写真提供:橘 信光、 富里市教育委員会 久彌が終の棲家とした旧岩﨑家末廣別邸は、大正末期から昭和初期に建設されたと考えられており、近代和風建築として国の登録有形文化財に登録されています。当時の木造家屋としては珍しい石膏ボードの採用や、天井裏と床下の一部に施した鉄板による補強など、耐火・耐震を意識した造りです。主屋の周囲に広がる庭園内には東屋や石蔵なども併設されています。 現在、旧岩﨑家末廣別邸を所有する富里市では、春と秋に市民を対象に100名限定の公開をしています。市は「ここは富里農業発展のシンボルであり原点である」という想いから、平成33年(2021年)の一般公開を目指して、有志ボランティアの力も借りながら改修整備を進めています。富里農業のシンボルとして三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の長男として高知県に生まれる。叔父・彌之助から三菱の社長を引き継ぎ造船、製紙、農政事業など各方面で活躍。50歳で社長職を引退した後は、末廣・小岩井農場などの運営を通じて農牧事業の発展に力を注いだ。岩崎久彌(1865--1955年)HisayaIwasakiMake A Great Contribution To Agriculture.Country Gentleman 久彌は北総台地で大豆栽培の成果が上がらないと聞くと、早々に研究に取り組み、大豆の栽培方法と多収穫方法を確立します。また、ハムやベーコンなどの加工食品の自家生産に成功しました。久彌は家畜の中でも鶏が大好きで、2,500羽もの鶏を5代にわたって完全記録した「系統繁殖法」という世界的な記録を残しています。また、末廣農場は技術力を見込まれて千葉県農業試験場からは、スイカの原々種栽培を委託されました。スイカの近代品種の一つで、富里市でも盛んに栽培された「都1号」はここで原種を栽培していました。昭和11年に富里市のスイカが皇室へ献上され、その後、全国に知られることとなる富里スイカの基礎作りに、末廣農場は深く関わっているのです。 農事研究に情熱を傾けるその姿から、末廣農場の職員は尊敬を込めて「あの人は我々の技師長だ」と呼んだそうです。ハットとスーツ姿に、長靴を履き、先に鎌のついたステッキを手にするのが久彌の象徴的な姿でした。日本が太平洋戦争に敗れると財閥解体や農地解放により、久彌は土地や財産、東京の本宅を取り上げられ、末廣農場にあった末廣別邸へと移り住みました。そして90歳となった昭和30年、日本農業の発展を願いながら、この地で永い眠りにつきました。「カントリージェントルマン」岩崎久彌富里スイカや現代農業につながる多大な功績P.12
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